『長良川の舟運:石材(川石)』 KISSO 68号から

 

 明治の木曽川下流改修工事にあたって石材(川石)や木材が使用された。

これらは下流域では入手できず、中流域から調達されたと目される。

 明治の記録は無く、昭和初期の石材供給源として挙げられる地域の内、

加野と町屋は船頭の数が群を抜き、船頭集落と言って良い状況で有った。

 現地調査・聞き取りの行われた岐阜市の加野が地図・写真付きで紹介

されている。尚、加野と町屋は長良川を挟んだお向かいの地域。

右岸:西側が加野、左岸、東側が町屋。

<船頭の一日> 

 夜明けに出発し、竿をさしながら石舟で上流へ。一艘に一人の船頭。

昼に上流の川原で石材の見当を付け、腹ごしらえ。

 ドンコと呼ばれる道具で石を掘り起こし、石鈎と呼ばれる道具で川底から

石舟に揚げた。1~2時間で、玉石30個ほどを積み込み。

 石材を積んで加野へ戻るのが午後3~4時。堤防外に係留。

 次の夜明けに下流へ出発。

 下流域で玉石を下ろした後、帆を上げて安八郡墨俣町まで上る。

 一泊後、翌朝夜明けと共に出発、午後2~3時頃に加野へ到着。

 

・・・順調に進んでも、一度運ぶのに3日を要した、という事か。

フォトギャラリーにも載せた写真は、撮影年不明の長良川で撮られた写真。

帆を上げて進むのは上流と思われる(喫水が浅いので)。

 鉄道橋と思われる橋脚・高い山から場所の推測が出来そうだが……。

廃線か?意外と場所の特定が難しい。

 

 

『木曽三川改修』 KISSO 65号から

 

 河川改修工事が着工された翌年、明治21年(1888)5月には改修計画図が民間に
よって「木曽長良揖斐三大河水利分流改修計略全図」として販売されるように
なったとの事。

…各所の地名を入れ、廃川となる佐屋川ほかが緑で、削られて川となる部分が
黄色で色塗りされている。

 この計画図にはそんな凄い事を考えたのか?!と心震う部分があったのだが
それは別号のところで触れる事に。

気になったのは、65号p10の最下段

「旧輪中の取り壊しや新しい河道となる部分は、すべて人力により掘削が
行われ、掘削した土砂の運搬はトロッコ(軽便鉄軌)により行われました」
河口部のしゅんせつにオランダからポンプしゅんせつ船「木曽川丸」を
輸入した事も書かれていたのだが……。

 建設重機ってまだ無かったのかと。
計画図を見ると曲がりくねった河をなるべくまっすぐ、且つ木曽長良揖斐の
三川を分けて速やかに河口へ水を流す為、掘削部分は相当に多い。

 これが全部人力掘削では人手と時間が異様に掛かったと想像する。
 途中からでも建設重機の登場は無かったのか?重機に関連するサイトを
巡って何かしら情報は無いかと探ってみようと思う。

                                     2012-10-15

2012-10-16追記

 建設重機は工事現場をチラ見する程度で実際の河川改修工事において
必要となる重機は何か?と考えてもパワーショベル(土を掘る・運ぶ)・
ブルドーザ(ならす)位しか思いつかないが、手探りで進めてみる。

 建設重機の歴史を描くサイトで見ると、
明治21年(1888)着工~33年(1900)三川分流完成~45年(1912)全工事

完了、に近い年代で・・・
 1838年に蒸気ショベルの開発、1903年に電気ショベルが開発との事。

他のサイトでは・・・明治40年(1907)英国製のスチームショベルが信濃川の
改修工事に輸入され、これが初輸入と思われるとの事。
であれば、木曽三川改修工事においては油圧ショベルは無かった、のか。

ブルドーザに至っては太平洋戦争中の南太平洋、飛行場設営を巡る島々

での戦いの中でブルドーザに出くわして開発を始めたとの事なので、

明治の日本には存在しないようだ。


……機械に頼れるのは人力で掘った土砂の運搬だけ。これは・・・これは
明治の木曽三川改修工事ってどれだけの人を要したのか、恐ろしい規模の
大工事だったのかという思いを強くする。

『立田輪中の開削』 KISSO 66号から

 

 明治の改修における図・文章を読んでいて最も驚き心震えた部分がココ。

KISSO 66号のp9最下段の図。見ただけだと、へえーあちこち削られたんだ
なあ、位の感想。


 ここで文章「従来の木曽川左岸堤防の役目を果たしていた立田輪中堤は、
木曽川の右岸堤防、すなわち木曽長良背割堤として使用されることに」
……ん?どういうことだそれ?? 印刷したKISSOに赤線を引き、図と文を
何度も繰り返し見て理解して衝撃が。 なんて凄い事を考えたのだろう。

 輪中を守る堤防は当然ながら強固に作られている。
立田輪中の西側堤防、これの東側に新たな木曽川河道を掘り進めて作る。
そして西側には今までもっと北で合流していた長良川を通す!
この新木曽川河道と長良川を区切る堤防として、立田輪中の西側堤防を
そのまま利用する。


 立田輪中より北側の元木曽川長良川合流部分までの西側:高須輪中は
大きく削って新長良川河道を作っており、ここの木曽川長良川を区切る
堤防は新規に作られている。

 新たな堤防を築くのは大変(人力という事も有り)、元の堤防を上手く
利用出来るなら当然それに越した事は無い、というものの・・・こんな
発想は常人には思いつかない気がする。
 計画を練ったヨハニス・デ・レイケなのか、一緒に考えた他の人達
なのか、何れにしてもその発想力には震えるところ。


 ここで道路地図を開いて県境の線を辿ってみると、愛西市(元の立田村)
塩田町あたりから、それまで木曽川中央を通ってきた県境線が長良川の
中央へと曲がって行き、そのまま南へ進み、長島町北部でまた木曽川の
中央へ戻って行く。 立田輪中の西側:現在の長良川が元木曽川で川の
中央で西側との境になっていた事が伺える。

 今回この内容を読むまでは県境が突然うねっている事など気にもして
いなかった。
 南にある木曽岬町が三重県に属する事もKISSOの別号で読んで初めて
気が付いた位で幾度となく開いたこの道路地図帳もまだまだ楽しみが
ある模様。  
                            2012-10-17

『低水路・ケレップ水制』  KISSO 67号 p10~11


 明治に招聘されたオランダ人技師ヨハニス・デ・レイケは木曽三川の
改修にあたり「低水路」を計画(p10中央に断面図)。

 「低水路」は彼が招聘されて最初に携わった淀川の改修において、
舟運の為に設計したもの。

 通常時に水が流れる部分を計算してその幅分だけを掘り下げる手法。
更に勾配も計算して土砂が留まらない様にする。勿論その前提として
上流の山では土砂が川になだれ込まない工事をした上で。
 
・・・両岸の堤防に囲まれた川は中央を中心として両岸に斜めに
 削ったと思っていたので、この作りには驚き。



 そしてこの低水路部分を維持する為に作られたのが「ケレップ水制」。
堤防から川に向かってほぼ垂直に突き出す形で作られた「幹部水制」、
幹部水制の先端に川と平行に作られた「頭部水制」により形作られる。

・・・今残るケレップ水制(木曽川右岸・立田大橋上流:幹部水制)の
 写真を見ると傍目には猿尾の様な堤防?としか見えない。

  猿尾の様に、壊れては困る本堤防を守り衝撃を弱める為に作られる
 補助堤防という目的よりも、低水路の固定維持の目的が強かったと
 思われる。

                                   2012-10-30  

 

『ヨハニス・デ・レイケの木曽三川調査』  KISSO 62号

 

 p9にデ・レイケの調査工程図アリ。
 2/23:犬山城天守閣にて観察・指示。

・・・彼もあそこへ登ったかと思うと感慨深い。

 2/24:鹿子島(江南市)付近の河道を視察。草井の渡しで木曽川を渡り、
  笠松まで調査。

・・・ん?あ、そうか。愛岐大橋も犬山橋もこの時代存在していないじゃ
 ないかと気が付く。各所を見回る移動それ自体に現代では考えられない
 苦労が伴う事は忘れない様にしないといけない。
  鹿子島(かのこしま)村は、愛岐大橋の架かる草井村の西に位置する。
 江南市史に掲載の天保12年(1841)絵図では南に御囲堤が「御本堤」と
 記載される。村は全て御本堤の北側にあるので更に北に位置する木曽川
 から村を守る為、木曽川沿いに別の堤と幾つもの猿尾が築かれている。



 彼の調査書はオランダ語で書かれたが原文は現在発見されていない。

・・・和訳書のコピーが残されている、という事は当たり前ながら通訳が
 常に傍らに居た?


  彼は約30年滞在したので後年には日本語の読み書き理解が出来たの
 かもしれないが、何れにしても恐らくはつきっきりになって通訳し
 文書を訳した人物が居たはず。影に埋もれたそういう人物の業績も
 彰されて然るべきと思う。

  視察状況の写真か絵か、掲載のものを見ると中央デ・レイケと
 目される人物の左には洋装・帽子の人物2名、右側には羽織袴の人物
 3名が。明治11年(1878)時点での服装が見られるのは面白い。
  個人的には現場視察なら上下作業着が一番だろうと思うのだけど、
 ここに出ている服装は何れも作業的には不適な気がしてならない。


                                                                  2012-11-23