『事業費と地租改正・地籍編製』

 KISSO 84号、国税庁サイト、日本銀行金融研究所サイト参照+個人的思い

 

 KISSO 84号によれば、明治の改修事業は明治20~45年。
工期の延長、物価の高騰、濃尾大地震による対策、計画変更により
最終的な工事費は 974万円になった。

<疑問>
・途中で浚渫船「木曽川丸」の購入は恐らく工事費に含まれている
のではと思うが、用地買収費用もここに含まれているのだろうか?

・後述の地租改正及び地籍編製事業により土地の測量と地図作りが
進められていた時代。事業のほぼ終わった段階で明治の河川改修は
始まっている。工事を行うにあたっては計画前段階で正確な地図が
欲しかったはず。
 年表でも明治6~8年に木曽川の測量が行われたとある。
 地租改正で各地の測量が始まったのと平行して一緒に木曽川も
測る形としたのか、独立して川沿いだけを測ったのか?
 機材や人もどうしたのか気になるところ。
 地租改正では実際に測量・作図した人は図面に載っている方が
珍しいくらい。
 オランダから測量器具と測量人を呼んだのか、技師達自身が
測量に加わったのか……。

 

・輪中を削ったり、新たな堤を作ったりと地図においても大きな
変動があった事業だけに、それまでに各村で作られた地図は大変動
したはず。地租改正・地籍編製で作られた村の地図は工事の進捗と
平行して測量しなおし、新たな地図が作られたのだろうか?


<地租改正による国家税収の安定>
 地租改正は明治6~14年に行われた「安定税収の確保(税の金納化)」
を目的として行われた事業。大蔵省が実施。

 それまでの米などによる現物では政府が売却をしてお金を作らねば
ならず、物価変動により税収が上下するという不安定な状況。
 これをお金で納付させる事により政府は安定税収を確保できた。
だがこれは納税者やそれを売買する商人に物価変動を押しつける事に。

 実際、米価下落で納税者に不満が募り一揆が発生する明治初期、
その後は米価上昇で納税者が潤い景気刺激、更にその後米価下落など。
 
 政府は明治4年に廃藩置県によって華族・士族に対して給料を払う
義務も負い、これを国債の様なものに切り替える事で順次支払を
削ってゆく。そんな事も平行してやっていた明治の初期。

 ここは日本銀行金融研究所・金融研究に掲載の図が判りやすい。

 地租改正では税を取る為に土地の所有権を認め、それによって
所有者を確定し、その人を納税者とした。
 この時に改めて土地を測り、図面を作って面積を確定させている。
尚、収税目的の為、税金の掛からない土地は測られていない。

・・・木曽三川だけでなく、他の河川でも工事が行われ鉄道敷設も
急ピッチで進めていた時代。税収を安定させ、それによって各所に
どうお金を割り振るか中々に政府は悩まされていた事だろう。


<地租改正と平行で行われた地籍編製> 
 地籍編製は明治7~23年に行われた「国内の正確な地図作り」を
目的とした事業。内務省が実施。

 こちらは地図作りを目的とした為、税金に関係なく測る。

 こちらは地租改正と違って知名度も低く、明治23年に事業が
取りやめとなった時点で終わった所、終わらなかった所と
まちまちの結果に(滋賀県は概ね完了)。

・・・明治21年に独立官庁となった「陸地測量部(後の国土地理院)」が
事業廃止に繋がったのではと個人的に思う。

 陸地測量部は陸軍参謀本部の専門部局として登山やハイキングで
使われた(今はGPSあるので)地形図を作る。当時と今との地形図を
比べると地形の変化があって面白い。
                                 2012-10-22

『柳津町(現:岐阜市)の治水偉人』  KISSO 53号
 加納藩と歴代藩主・歴代若年寄・役職:奏者番→ネットから

 

◎山田省三郎:天保13年(1842)~大正5年(1916)

 佐波輪中の出身。

 13歳:加納藩の庄屋役

~17~18歳頃:加納輪中の堤防取締役(士分待遇・苗字帯刀)
  19歳時、藩主に治水の策を講じ堤防の修築急務を説く。

 ・・・1861年の加納藩主は5代の永井尚典(なおのり)。この年、幕府の
  奏者番に任じられる(51歳)。翌年に隠居。
   KISSOに記載の若年寄となった藩主は4代の永井尚佐(なおすけ)?
  要職を歴任し1839年死去。ん?生前?
  「治水事業に尽力し彼を任命した」のは5代で、前文の「若年寄として
  評価が高」かったのが4代として混ざった文章なのだろうか。


~31歳前頃:佐波村の戸長
  明治6年(1837)学制施行。自宅を仮小学校として自らも教壇に。
  一切自費で児童数十名を教育。

~37歳頃:岐阜県議会の議員24年
 ・県議会で堤防費の予算組み込みを主張。
   負担を巡って山岳地域と水場地域で紛糾。

 ・明治13年(1880)治水共同社を結成。三川分流改修工事の運動。
 ・明治24年(1891)濃尾大震災、復興費の国庫支出を実現。
 
~60歳頃:衆議院議員3期
 ・県内河川の治水や教育に尽力

~75歳:死去

・・・13歳の庄屋も凄いが17,18歳で治水の重要職とは。19歳時点で藩主に
 治水策を講じるとか、昔の人は若く(幼く)してどれだけ出来る人間に成って
 いたのだか驚かされる。

  明治6年の学制施行時に戸長を務めていたという事は、地租改正における
 諸々の諸事にも当然関わっただろう。

  地租改正時の土地一つ一つの境界・所有者確認や測量・地図作りは結構な
 手間の上、雛形(参考モデル)は示されても実際作業を行う技術職が各村に
 どれ程居たのか?携わった人数は?など詳しい事は良く判らない。
 何か手記とか残しておいて貰えるとありがたかったのだけれど。

  明治の分流工事に関する別号の中で治水共同社は覚え有り。残念ながら
 彼についての覚えは無かったが。

  破堤の災難から地域の治水・教育に尽力した一生、か。こういう議員こそ
 地域で尊敬される議員と言えるだろう。県議員時の県全体を考えた言葉や
 県を超えての活動を考えると、村戸長~県議員~衆院議員と地位の上昇と
 共に、自らの視点も広く大きくしていった(する事の出来た)人であったのだ
 なあ、と感嘆の念を禁じ得ない。そういう人ばかりが国会議員になるので
 あればありがたい事なのだけどね。


  尚、昭和4年岐阜公園に銅像が、戦時の金属回収で消えた後、金華橋近くの
 四ッ谷公園に石像が再建との事。本人が望んだのであればともかく、やたらと
 高い台座とかのある像があちこちに見受けられるのが良く判らない。遥か上を
 見上げねばならない様な、像視点では人々を見下ろす様な、そんな像を本人が
 望むのかどうか、建立する人達はよくよく思案するべきだろう。

                                                                          2012-12-21

<2012-12-24、追記>
・・・柳津町上佐波に高く目立つ鐘楼アリ。偶々通りかかった時に撮っていた
 写真を発掘。2006年11月撮影なので説明板が「岐阜市」に貼り替え済み。
 フォトギャラリーへ鐘楼遠景と説明板の写真を掲載。

  53号&説明板に有る様に、彼(山田省三郎)が鐘楼を、村人が梵鐘を寄進。
 高さ約10m。天井に有るという49枚の絵は気になるところ。



◎黒川治愿:弘化4年(1847)~明治30年(1897)

 佐波村の庄屋川瀬家にて生まれる。学問の師は先の山田省三郎と同じ木蘇大夢。

~21歳:京都へ遊学(20歳の時が明治元年) 
 ・明治2年(1833)元仙洞御所の用人:黒川敬弘の養子となって黒川姓に。
 ・皇室や香川県職員として勤務。

 ・・・短期間では次の愛知県で行う運河の計画・監督などの技術を習得できない
  と思うので、この間それらの技術習得に励んだと思われる。

  
~28歳:愛知県の吏員として赴任。明治8年(1875)
 ・明治9年(1876)「庄内川分水工事」「木津用水改修工事」着工
  愛知県を流れる庄内川、ここから水を引いて堀川に導入する運河工事。
 ・明治10年に運河完成。計画・監督の黒川治愿にちなんで黒川と称される。

 ・・・名古屋で時折見かけた地名:黒川の由来はこれか!道路地図をよくよく
  見れば春日井方面から大須へ向かう際よく使った県道102号:名古屋犬山線に
  平行して流れているのが堀川(黒川)と記載あり。全然気が付かなかったな。


~37歳:木津用水改修工事竣工。監督。明治17年(1884)
 ・改修に際し開削による地域の違いが必ずしも一致せず、調整に奔走。
 (木津用水:木曽川から尾張東部に引き込む用水路。1648工事着手。3年後竣工。
   1664年には分岐して延長約15kmの新木津用水が完成。)

 ・改修による拡幅で明治19年(1886)木曽川~堀川間を運行する愛船株式会社設立
   木曽川→木津用水・新木津用水・庄内川・黒川・堀川を結ぶ約23km。
   運送物資:木材・薪炭・米・麦など。

 ・・・木津用水・新木津用水は逆に地元として数知れず渡った水路。明治の
  結構早い時期に改修されていたのか。しかも水運航路ともなっていたとは。
  明治中頃はまだまだ車での運搬は盛んで無かったという事か。木曽川流域と
  名古屋を結ぶ船が、あの川(水路)達を行き来していたのかと思うと衝撃的。
  現在の道路や車を取り払って情景をイメージしないと、何故当時苦労して
  工事をしたのかに理解が及ばない。 この水運はいつ頃まで続いていたの
  だろうか?


~38歳:土木課長を最後に退職。過労による病気の為。明治18年(1885)
 ・農業をしながら余生を過ごす。

~50歳:死去


・・・こちらは佐波村を出てから皇室・香川県職員を経て愛知県の吏員として
 勤め上げた人物。

  計画・監督者の名前が運河に付されるというのには意外な驚きが。現代では
 大工事で有ろうと無いのでは? これは彼の能力も勿論高かったのでしょうが
 個人の資質に頼らねばならない程、当時の全体官僚数が少なかったのか、技術
 面で出来る人が限られていたのか、不明なれど気になるところ。

  調整に難航した木津用水改修が終わり、そう時を経ずして過労病気退職とは。
 働き盛りであったろうに休職で無く退職となった事、50歳という若さで死去
 した事から、携わった業務が如何に過酷で寿命を縮めたかが伺える。
  こちらは元:愛知県人として地域の発展に尽くされた業績にお礼申し上げる。

                                                                     2012-12-24