『江戸期の土砂留』  KISSO 63号 p12~ 

 

 ヨハニス・デ・レイケの砂防を中心とした治水思想の説明中に
語られる江戸時代の治山(土砂流出防止)策について。

 淀川水系が題材。はげ山から流出する土砂によって川が上昇し洪水を
引き起こす事は既に知られており、幕府は貫文6年(1666)に
「諸国山川掟」を公布。伐採の禁止令を出す。これの徹底は容易でなく
約20年後の貞享元年(1684)、再び山川掟を布告。

 土砂留の工事は費用が各村々の負担である為、進まず。
 伐採の禁止は農民の貧困による伐採を庄屋が止める事など出来ない。
 更に、共有の山林である入会地が状況を更に困難にしているとある。

・・・入会地の制度それ自体は、各村各個人で山林(土地)につき明確に
境界を決める事をせず「皆の山」として共同で管理し使用する、上手い
制度であったと思う。ただそれが皆が苦しくなって伐採に走った時には
共同であるが故に止める力は存在しなかったと言う事か。 連作農業が
一般化して肥料・燃料を得る為に伐採をした事も書かれている。

                                                                                2012-11-01

【追記】
・・・幕府役人(土砂留奉行)に治山思想が欠けていたという記述もあり。
p13三段目の記述が、用語を辞書で調べつつ時間の掛かった部分。  


<自己流解釈>
 当時山崩れを憂いてもこれを監督する役人は儀式的な巡視をしていた。

 巡視の6-7日前に通知し役人数と泊まる場所を決める事となる。
村や里の長は、村の中でも裕福な家を選んで宿泊所と定める。

 期日には山や海の美味い酒肴を取り揃えて接待する。役人の怒りに
触れて罰せられてはたまらないので。

 さて役人、大声?で「山に土砂留めの工事をやったか?」長「砂防
工事をした簿記(工事記録?)はこちらでございます」と渡す。

 役人、それを見て「記載通り工事は成就したのか?」長「終えました」

 役人「では現場を巡視するか」と駕籠に乗り、村人達が駕籠をかつぐ。
従卒は前後に付く。長が先導して山麓の平坦な道を進む。

 長は遙かに(先に)見える山を指さし「工事した現場はあの山です」
役人は駕籠の中から見て曰く「よし、巡視は終わり。宿に帰る」
かくして饗応の宴は前日?の通りに。


・・・なんだこりゃ、と言う他無い。正式な読み下し文が無くても
大雑把な雰囲気を捉えただけでも、これは酷い。

 現場を見る事無く接待に耽る役人、そんなのばっかりでは無いと
信じたいところだけど、比率次第では何も土砂留め工事が進まなかった
可能性も。

                                                                 2012-11-02

『江戸幕府の治水工事分類』  KISSO 56号p9~

 

Ⅰ.御普請=幕府が全部または一部の費用を負担する。
      大きな災害が生じた時、臨時に行われた。

Ⅱ.自普請=大名や領民によって実施される。


<Ⅰ・Ⅱの中身>
Ⅰ-1.公儀普請=幕府領・私領ともに実施される

Ⅰ-2.国役普請=国役金をもって実施される

Ⅰ-3.御手伝普請=普請を特定の大名に手伝わせる

・御救い普請=住民の経済的救済が目的の一つ。災害などを罹災した
     人々を積極的に雇用し賃金を支払う事で救済を図っていた。


Ⅱ-1.領主手限自普請=領主が実施する

Ⅱ-2.百姓自普請=領民が実施する

 

・・・まずは分類。次に木曽三川に関わる領地関係・御手伝普請の
 歴史へと進む。

  大河の増水は現代でも見て居て恐ろしいモノ。村や地域で普段
 尽力しても尚至らない大工事を領主や幕府にやって貰う様に陳情する
 のは当然の流れだろう。

  気になるのは御手伝普請。詳しくはその勉強の時として、工事の
 地域と全く別の場所を統治する大名に普請をさせるというのは、
 命じられる側にしてみれば何故?!と猛反発を招く筈。
 
  国を挙げての大工事と言う事なら、国全体の問題として藩の石高
 などで負担金額を決めて一律に供出して貰えば納得もして貰いやすい
 だろうし、負担金額も少なくなる。

  それを単独指名しては、うちだけかよ!と思うのは普通の感情。更に
 そうした単独指名が1度で終わらなかった藩も複数有る。何か恨みでも
 あるのかい?と問いたくなるところであったろう。幕府はその見返りを
 何かしたのだろうか?

                                                                                2012-11-13

『木曽三川下流域の領地関係』  KISSO 56号p10

 

 尾張藩が尾張国一円を領有していたのに対し、
 美濃国は多数の領主が存在。

 約60余万石の内、約20万=幕府直轄、約15万=尾張藩、
残り約25万が大垣藩・高須藩など10藩の大名と70余の旗本領に細分。
更に領地は錯綜。

 多数の領主・領地の錯綜は利害関係を複雑にして水害復旧や排水など
一貫した治水事業の実施を難しくしていた。


・・・大阪では纏まった大きな領地を与えた場合の反乱を恐れて領地を
 細かく入り組んだ形としていた。同じ事が美濃国でも行われていたと
 いう事だろうか。

  「管理者」視点では、自分の土地があちこちに有るというのは治水に
 限らず土地管理という観点でも非常に面倒。


  江戸期に度々あった検地において作成した村絵図・帳面は、きっと
 幾つも写し(コピー機無いので)を取って管理したのだろう。
  どこにどれだけの土地が有って年貢はこれだけで、それぞれキチッと
 納められたかのチェック・・・藩の担当者は相当に大変であったのでは。
 
  「農民・農村側」視点では、収穫成果を納めるにしても厄介であった
 だろう。流石に一つの村内で領主が異なっては困るだろうけど・・・と
 思って調べると一つの村で3領主とか有りました。面倒すぎる!せめて
 一つの村は一つの領主にしておいて貰いたいところだったろう。

                                                                            2012-11-15

『江戸幕府による御手伝普請』  KISSO 56号

 

 複雑な領地関係によって地域一環の治水が行えない事から、流域住民は
幕府に対して何度も治水を願い出ていた。

 そうした住民の切実な願いに応えて行われたのが「御手伝普請」

 美濃郡代・高木三家(上石津町に陣屋を置く旗本)は木曽三川下流域で
実施される御手伝普請で工事の監督を行う。

 木曽三川における御手伝普請の始まりは延享4年(1747)、二本松藩に
命じた治水工事。以後、幕末の文久元年(1861)まで114年間に16回実施。 

 寛政8年(1796)~文化2年(1805)の9年間では5回の実施。

 普請が命じられた回数:
  小倉藩4回、薩摩藩・岡藩・二本松藩・宇和島藩それぞれ3回、
  萩藩ほか11藩が2回。全48藩が命じられたので、1回は43藩?
  なお、幕末の藩数は280と言われる。

 
・・・薩摩藩に命じて行われた宝暦4年(1753)~5年の治水が「宝暦治水」
 として有名だが、それ以外にも普請に携わった藩が多数あった事は
 忘れてならないところだろう。

  薩摩を含めて九州地方に多く普請が命じられたのは、江戸から最も
 遠く離れて目が届かないという心理故だろうか。

  九州は外様大名が多かったとはいえ、直轄地や譜代もあったハズと
 思い調べてみると、中国・四国・九州は外様大名の領地が圧倒的に多い。

  大名の配置図を調べると、譜代・親藩を近畿~中部~関東に集中させ
 過ぎではと思う程。けれど幕末の尾張藩は反幕府側に立ち、名古屋城は
 想定された強力な防御力を発揮すること無く終わっており、大名の配置
 だけでどうなるものでも無い事は後々証明されてしまった。



・・・郡代の旗本:高木三家は、本家の西家が明治以降も存続。分家の
 北家・東家の所蔵分も含めて膨大な文書が今に残り、名古屋大学の
 附属図書館研究開発室で調査・研究が進められている。こちらは
 特別展示「川とともに生きてきた」を取り上げる時にでも。

                                                                 2012-11-19

『江戸期、御手伝普請の変質』  KISSO 57号p9~14

 

「御手伝普請」=幕府の命を受けた大名が、本来幕府が行う治水工事に
        ついて工事費用などを負担して御手伝する事。

 制度化された御手伝普請は、宝永元年(1704)高知藩などによる利根川・
荒川の普請を最初として幕末まで続く。


<御手伝の方法>

1.藩士を現地に派遣して施工に携わる方法
2.藩士を現地に派遣するが、工事費用のみを負担する方法
3.藩士の派遣は無く、工事費用のみを負担する方法
・・・2で形式的に、3は既に分担金の賦課。


<初期の御手伝普請と請負の禁止>

 初期(1704~1716)の形態は、町人請負が主流。
 請負業者の選定は幕府勘定所が行い、御手伝藩は藩士を現地に派遣して
工事の監督にあたると共に工事費用を支払った。

・・・これで工事に慣れた業者が民間に生まれたと言えようか。同時に
 残念ながら悪徳と言える業者も生まれてしまい、禁止令に繋がる。



 正徳3年(1713)町人や村役人による請負を禁止。
 (現地に精通しない者による不良工事や工事に伴う不正を防ぐ為)

 以後の普請形態は、御手伝藩が人足を直接雇用し工事を行う方法に変化。

・・・この禁止をやり過ぎて犠牲者多数になったのが宝暦治水。それを
 踏まえて反省し、次の段階に移る。



<工事費用のみ負担へ>

 最終的には幕府勘定所が工事を実施し、竣工後その費用を諸大名に
賦課する形態となる。
 
 木曽三川における御手伝普請は、延享4年(1747)~文久元年(1861)迄の
114年間に16回行われた。
・・・16回の概要だけでも非常に長くなるので、次回別枠にて。
                                                                    2012-11-25

『江戸期、木曽三川における御手伝普請の歴史』 KISSO 57号p9~14

 

<御手伝藩による施工>
1.延享4年(1747)・・・これが木曽三川の御手伝普請はじまり。
 ・全て請負業者による「町方請負」
 ・二本松藩
 ・700余名の藩士を現地に派遣
 ・工事期間2ヶ月

2.宝暦3年(1753)・・・ココが知名度の高い宝暦治水。
 ・地元農民を雇用して施工する「村方請負」指定。難工事箇所を
  「町方請負」とするよう請願するも数箇所が認められただけ。
 ・薩摩藩
 ・藩士派遣947名、現地雇用を含めると2千人とも伝わる。
 ・一期工事:宝暦4年2/27~5/2(約2ヶ月)、
  二期工事:9/24~宝暦5年5/22(約8ヶ月)

3.明和3年(1766)・・・宝暦治水への反省が見られる。
 ・「町方請負」「村方請負」「お金御手伝(幕府施工)」の混在
 ・萩藩、岩国藩、若狭藩
 ・3藩総勢で藩士1200名
 ・明和3年3/28~6/3(約2ヶ月)
 ・「町方請負」「お金御手伝い」が相当あったと想像される。


<お金御手伝への転換期>・・・これ以後は藩が直接施工に関わらない。
4.明和5年(1768)
 ・徳島藩など5藩
 ・工事開始:5/1、御手伝命令:5/4
 ・少数の藩士を現地に派遣、形式的に普請場所を引渡し、藩において
  施工したという形式を執った模様。

5.安永8年(1779)
 ・鳥取藩
 ・工事は前年12月に幕府勘定所より着手、命令:1/29。
  現地では目論見書や図面の交付、工事用の元小屋を受け一応の竣工
  態勢を整え、2/28竣工・引き渡し。
・・・なんだ、これは。そんな見せかけだけな事をそもそもやる必要が?
 そういう儀式めいた事でもやらないと藩にお金を出させられないから?


6.天明3年(1783)
 ・小倉藩など5藩
 ・命令:竣工目前の7/12。
 ・命令に際して藩主の指図を待つ事無く江戸在勤者を現地に派遣せよと
  指示している。竣工:8/2。
・・・命令と工事時期比較で益々儀式・儀礼めいているが、藩主の指示を
  待たずに現地派遣というのは実は気にすべき所では? 後で藩にお金を
  出させる為の形式を整えるのは判るが、藩主無視で藩の人を直接動かす
  のはどうだろう? 藩視点では何勝手な事を!と思わざるを得ないかと。

 
 7.以降は次回にて。
                                                                                     2012-11-27

2012-11-29追記
<お金御手伝制の成立>・・・以降さらに形骸化。
7.寛政元年(1789)
 ・二本松藩など6藩
 ・1月工事着手、命令:3/28、竣工検分の目付が江戸出発:4/8

8.寛政8年(1796)
 ・明石藩など3藩
 ・竣工月日:不明、命令:6/19。関係者への江戸での褒賞:8/18

9.寛政11年(1799)・・・前年4月に大洪水。
 ・津藩など9藩
 ・命令:4/27、工事着手:9/15、竣工:翌年春。
 ・費用20万両余、3回分納。担当区域示されず。

・・・宝暦治水の40万両に続く高額工事費用。但し9藩+3回分納で
  薩摩藩のみに比べれば各藩としては助かったところだろう。



10.享和元年(1801)
 ・広島藩
 ・工事着手:前年12月、01年5月係役人が江戸で将軍拝謁。命令:6/1
 ・上納金は8月から2ヶ月毎3回分納。


<他河川と一括した御手伝普請>
・・・これ以後、木曽三川単独で無く、他地方の普請も含める。
11.享和2年(1802)
 ・大聖寺藩など6藩
 ・命令:8/28、木曽三川での工事は元年12月~4/15。
 ・関東や甲州でも普請有り、それらを纏めて御手伝普請。

12.文化2年(1805)
 ・川越藩など8藩
 ・東海道、甲州、濃州、勢州の普請も含む。
 ・命令:6/22、工事期間:約3ヶ月

13.文化13年(1816)
 ・薩摩藩など7藩
 ・前年6月の大水害に対する普請。東海道筋の普請も含む。
 ・命令:4/29、工事:前年11月~3月

14.文政3年(1820)
 ・萩藩など3藩
 ・前年6月発生の地震被害により。
 ・工事:前年12月~4月
 ・費用:57000両余、3回分納。

15.天保7年(1836)
 ・小倉藩など5藩
 ・命令:2/24、工事:前年10月~竣工月日不明。

16.文久元年(1861)
 ・明石藩など5藩+富山藩ら2藩
 ・命令:7/22+8/6(追加)
 ・木曽三川+東海道筋の普請。
 ・上納金が3年分納
 ・勘定吟味役出発:1月~4月江戸で将軍拝謁。

・・・それまでに比べて3年という長い期間の上納も気になるが、
 私的には追加2藩というのが気になるところ。

  工事が終わって後「命令」という形式でお金を分担させると
 いう事を考えると、5藩では負担が大きすぎると考えて追加を
 したのだろうか? 加えて3年という長期分納にする事で、
 各藩の年負担を減らし反感を少なくしようとしたのか。

 

・・・16回の御手伝普請につき概要を纏めたが、折角なら各回か
 大きな纏まり毎で当時どんな出来事があったのかを調べて書き
 留めれば、それらが影響しているのか否か想像してみるのも
 面白そう。

                                                            2012-11-29

『江戸期、木曽三川御手伝普請と当時の将軍』

 

 当時在職していた将軍の系譜を並べ、そこへKISSO57号にて学んだ御手伝い

普請の各回と負担藩・形態を並べてみる。

 (在職年数は大雑把にて。そちらがメインでは無いので)


 -幕府の将軍- -木曽三川御手伝普請- -御手伝い形態-

1716年
 ↓   
 ↓ 8代:吉宗 
 ↓          第1回(1743)二本松藩   <↓藩の施工>
1745年(↑29年間)
 ↓          第2回(1753)薩摩藩(宝暦)
 ↓ 9代:家重 
 ↓
1760年(↑15年間)
 ↓          第3回(1766) 3藩(明和)
 ↓ 10代:家治   第4回(1768) 5藩      <↓負担金への転換期>
 ↓          第5回(1779)鳥取藩
 ↓          第6回(1783) 5藩
1786年(↑26年間)
 ↓          第7回(1789) 6藩      <↓負担金のみ課する>
 ↓ 11代:家斉     第8回(1796) 3藩
 ↓             第9回(1799) 9藩
 ↓          第10回(1801)広島藩
 ↓             第11回(1802) 6藩      <↓他河川と一括負担>
 ↓            第12回(1805) 8藩
 ↓           第13回(1816) 7藩
 ↓           第14回(1820) 3藩
 ↓           第15回(1836) 5藩
1837年(↑51年間)
 ↓
 ↓ 12代:家慶 
 ↓
1853年(↑16年間)
 ↓
 ↓ 13代:家定 
 ↓
1858年(↑5年間)
 ↓          第16回(1861)5藩+2藩
 ↓ 14代:家茂 
 ↓
1866年(↑8年間)


・・・11代は約51年間と長いので回数も多い、という単純なモノでも無さそう。

第2回で一部しか認められなかった町方請負が第3回では多く行われ、その後は
  負担金の賦課となる事を考えると、その頃に手慣れた工事業者が地域に生ま
  れていたと思われる。

   流域では普段から堤防の維持・補修に務めており、それが高じて人や工事
  物資を手配・調達する商人も生まれていたのでは、と想像。

   尾張・美濃・伊勢に跨がる大規模なモノなのか、各地地域毎で小規模な
  モノだったのか、今は想像でしかないので何も判らないけれど。

   歴史は別の視点で見るほどに違う面が見えてきて面白いモノ。洪水は
  農業が暇な時を選んで来てくれる訳では無いので、物資はともかく人の確保
  は結構難しいものであったと思う。如何に備え手配準備したのか、そんな
  研究をしている人・文献は無いものか……。

第4回(1768)~第6回(1783)は田沼意次が幕府で力を持っていた時代。彼の
  商業政策と貨幣の流通量も増したであろう事が、手慣れた業者(商人)の育成と
  負担金のみ各藩に課する手法にも繋がったのであろうか……。



第10回(1801)~第13回(1816)は伊能忠敬の全国測量(10回)と重なる時期。彼の
  地図は日本の形を測ったモノでそれまでに各藩で製作の国絵図とは異なる。
  幕府としては伊能地図に国絵図を合わせて利用したと思われる。各藩の位置、
  河川の源流から海へ流れ込むまで、各街道状況など、それまでの繋ぎ合わせ
  地図よりも遥かに精度良く考えられる様になった事だろう。


第11回(1802)以降は他地方の河川と一括で、木曽三川のみならず他地方でも
  洪水被害が無視できない状況になっていた模様。

 他地方は不明だが木曽三川で言えば今までのKISSO読みから、その原因は
  土砂堆積による河床上昇・後背湿地を新田として開発推進した結果それまで
  遊水池であった部分も田畑となり、被害地域となった事が考えられる。
 
 田畑になるまでは水が浸入しても被害地域としては扱われなかったであろう
  事を考えると何だけど。

 
第15回(1836)で実質終わっていそうな感もある。

第16回(1861)の前年には大老:井伊直弼が暗殺されており幕府の力は大きく
  下がったと見られていたと考える。上納金の3年分納や追加藩での負担減少
  などは強く出られない当時の幕府事情を感じさせる。


                                                                           2012-12-01