『輪中の定義と成り立ち』 KISSO 79号から

 

<輪中の定義>
 ①囲堤をもっている事
 ②集落との内を含包している事
 ③水防組合を組織して水の統制をしている事
 ・・・①②の形態と③の機能を兼ね備えている事が必要と有り。


<輪中の分類> 地形上の特性
 ①扇状地地域・・・則武、島、室原、飯積
 ②自然堤防・後背湿地地域・・・加納、河渡、大垣など多数
 ③デルタ地帯・・・高須、立田、長島ほか


<成立年代> p7に説明図。
 ①江戸時代まで
   自然堤防を中心とした微高地に集落が発達。
  輪中の形成には高く強固な堤防+輪中内の不要水を排出する杁樋(いりひ)の
  設置が必要で、技術力と労力の面から中世の荘園領主や戦国大名の力では
  叶わず、成立は江戸時代に入ってからの事となる。

  ・・・地域を守る為に高い堤防をぐるりと取り囲んだ結果、浸水からは
   免れても不要な水をどう排出するかに悩まされる事となる。輪中が次々と
   出来る事で河道は狭まり水の流れが阻害されて水位がup。更に排水が困難に。
   近隣地域では水害が増加して輪中の形成が更に進む。

    他の資料でも一つの地域で堤防を新たに作ろうとすると他の地域から
   待ったが掛かるといった事例が出て来る。他の地域で行われる事が自分達の
   村に影響が出る事をよく知っていた模様。当然ながら争いも発生。

 ②1600~1699年:江戸時代前半
   多くの輪中がこの時期に成立。

 ③1700~1799年:江戸時代中期
   輪中の成立は少なめ。開発進み河道の固定化進む。

 ④1800~1905年:江戸時代末期~明治時代
   高位部の輪中化が進む。

 ・・・江戸時代成立の輪中堤は多くが戦後の土地改良などの過程で取り壊される。
  昭和51年9月の洪水で輪之内町は旧輪中堤によって浸水から免れる。
  この洪水は「安八水害」として岐阜西部では年配の方に広く知られる。

 2012-10-26:5行追記
  安八町~輪之内町へと車で県道219号線を走る際の事を思い出し。
 道の両側に高台形状が続き、道がそれを突っ切るような形で分断していたのが

 妙に気になった丁度その場所(名神高速の通る少し南)。昔鉄道でも通っていた

 のかな?と当時は思ったのだが、それこそが輪中堤。 安八水害の際には封鎖

 した写真がKISSO 83号に掲載されている。


<居住区による成立過程の分類>
 1.河川の堆積作用で出来た微高地に居住。
  尻無堤(後部に堤防を作らない)を築造。
   ↓
  懸廻堤(地域全体を取り巻く)へと推移。典型的な輪中。

 2.輪中内には居住地無し。後に輪中内に居住を始める。
  既存の輪中堤に接続して開発された輪中がこのケース。
                                       2012-10-24

『滞留水(悪水)・排水』  KISSO 67号から

 

 p9~濃尾平野の西側に傾く地形による水流、流出土砂による河床の上昇に
より輪中内耕地は滞留水(悪水)により浸水、耕作できない区域が江戸時代に
増加。

 延喜3年(1746)正月、安八・石津・海西郡40ヶ村の庄屋が連名で滞留水に
よる災害の状態を多良御役所(高木水奉行所)へ訴え。

・・・読み下し文が無いので厳しいが、ぼんやりとは判る、かも。
 <自己流解釈>
  木曽川(のほか?)高い山から流出する洪水の度に流れ来る土砂で川底は
 埋まり、通常時の水の高さが高くなっている。 

  美濃国南西の各村では悪水を伊尾川(揖斐川の事らしい)に排出しているが
 木曽川の水位が高くなった事で伊尾川の水位も連動して高くなった。

  高須輪中では悪水の排出が地域全体に渡って出来ず、年々水による損害は
 増すばかりで難儀しています。・・・こんな感じだろうか。


 延喜4年(1747)、幕府は二本松藩に木曽三川改修の御手伝普請を命じる。
ここから木曽三川の御手伝普請の歴史が開始。

 だが、その後の宝暦治水・明和治水などの大普請によっても滞留水災害は
続き、多くの輪中地域では収穫が皆無となる状態にまで荒廃(p9中央図参照)。

                                        2012-10-27  
 

『堀田』  KISSO 67号p9から
 

 安永年間頃(1772~1780)「堀上げ田」の技術開発。
これによって耕作地が僅かながら回復。抜本的対策は行われない状態で
明治改修を迎える。

 木曽三川の分流は洪水対策と共に輪中の排水が目的とされたもの。

・・・堀田は海津市にある歴史民俗資料館の屋外に復元されています。
 フォトギャラリーに載せた写真にあるように、悪水問題がある為に
普通にしていては耕作が出来ない。そこで短冊形に土を削って隣へ盛る。
畑で畝を作るのを更に大型化した感じだろうか。そして高くなった部分で
耕作を行う。


 高くなった耕地を「堀上田(ほりあげた)」、水に埋まる部分を「堀潰れ」
この二つを纏めて「堀田(ほりた)」

 耕作面積が減る・舟が必須になる・この形状を作り補修するのに多大な
労力を要す、と問題は有っても、何もせねば全体で耕作できない状況を
鑑みれば画期的な技術革新であったと感じる。


 全面積の約4割が水路や池となる状態が長く続いたが、
明治中期から排水機場が建設され、機械排水が行われる様になった事で
堀田は徐々にその役割を終え順次埋め立てられ昭和40年代には姿を消す。

 堀田が埋め立てられ、全面積が耕作地となった海津はそれまでの
1.6~1.7倍の耕作面積となったと考えると、農業生産力アップの
著しさが窺われます。

 高須輪中の排水機場についてはKISSO 82号、杁樋の設置については
KISSO 81号にて掲載されているので何れそちらもメモ書き予定。

                                    2012-10-28   

『水神信仰』  KISSO 52号p9~

 

 輪中地帯における水神神社は水難除けの神を祀る。祭神は一定では
無く、龍神・神明社・白髭社・多度社・貴船社などなど。

 その祭礼は堤防が決潰した月日であり、夜半に祭事を行う水神は
その時刻に決潰した。近年は祭礼を祝祭日に変更されつつある。

 大垣輪中では揖斐側の堤防上或いは中段・下に多く祀られる。
それらは水防上の危険箇所・嘗ての破堤地点など。

・・・今の時代では神に頼んだところでどうにかしてくれる訳が
 ない事は判るけれど、嘗ての人々にとっては最後は神頼みしか
 無かったというのもまた理解できるところ。

  KISSOでは毎号最終頁に「民話の小箱」として、その号で
 特集された市町村にまつわる民話が紹介されている。
  そうして今に伝えられた民話や今回の神社が設置された場所・
 祭礼の日時といった情報が、嘗てあった出来事や日時を教えて
 くれると考えれば無碍にするものでも無いと思う。


  洪水で上流から流れ着いた御神体を水神として祀る事もかなり
 あったと書かれて居たが、はて、流れてしまった上流は新たに
 御神体を定めて祀りなおしたのか、そもそも御神体が流れ出す
 程の洪水だから、社ごと流されたのかな、とも。

  流れ着いたと伝承される水神の多くが嘗ての破堤地であるとも
 書かれて居る・・・・・・うーむ、これは??
  いろいろと考えが湧く。
 ・そも流れてしまった神さんは上流の地を守れなかったのだから  
   下流の流れ着いた地で今後守ってくれるのか?
 ・下流の地を守る為に流れて来てくれたのだ、と良い方へ解釈
 ・実際に流れ着いたのかどうなのかという疑問も。新規に作った
   御神体を流れ着いた神さんだとして祀ったのかも。
 
  何れにしても、破堤地などの今後も危険な重要地点を地域全体で
 しっかりと監視・補修していく上で、皆の集まる・お参りする
 神社や祠といったモノを設置するのは誰が考えたのか判らないけど
 上手い手法であったと思う。

                                                                           2012-11-03

『長島輪中の土地利用』  KISSO 77号p8~

 

 長島輪中の郷:館長さんの考察文。
 輪中を形成する事で川の水位は上がり、内部と川の水面高さが逆転し、
内部への水の取り入れは楽になっても排水は困難であった。

 堤防に樋門・樋管といった水門や管により逆サイホンなどの工夫も
用いて排水。

 水に悩まされる反面、秋~春の渇水期の裏作栽培には逆に適していた
地帯。洪水さえ無ければ収穫が約束されている。

 長島藩となった江戸期、長島輪中のほぼ中央には東西に渡る井桁が
作られ、輪中内の上流部においての洪水を誘発して土砂の流入を行い、
下流部の客土とした事が伝えられる。

 洪水を利用して土地形成だけで無く作物の栽培管理まで行っていた
事になり、水との戦いと言うよりも水と共生してきた。

・・・これは意外に思えたけれど、エジプトのナイル川氾濫を
 思い起こせば納得もいくところ。
  どうしても「輪中→水との戦い」という感じに短絡的になって
 いたかもしれない。

  各所に出来る輪中~川水の流下速度減少・土砂の堆積も加わり
 川の水位上昇~他所の堤形成による影響を考えての争いといった
 事も勿論忘れてはならないとは思うが。

                                  2012-11-06

『柳津町(現:岐阜市)の畑繋堤跡』

 

 最初の頃にフォトギャラリーへ載せた写真2枚。柳津町(現:岐阜市)丸野に
ある「畑繋神明神社(畑繋太神宮)」にて2005年撮影の「畑繋堤跡」です。

 すぐ近くにショッピングモールがあり、時折寄る事は有ってもこの様な
史跡が有るとは露知らず。この時も神社入口の史跡説明板に目を留めなければ
スルーしていた事は間違い無いでしょう。



<畑繋堤> 史跡説明板・KISSO 53号・木曽三川資料室の内容をミックス。

1.このあたりも嘗ては輪中(松江輪中)。宝暦年間の治水工事後、この地域に
 洪水被害が頻繁に起こる様に成り、住民は堤防を築いて守る事を考えました。

2.が、この地域で堤防を築く事は近隣や更に上流域に洪水被害が及ぶとして
 再三の申請にも、お上(幕府)の許可が出なかったのです。

3.やむを得ず、住民は堤防の新規築造では無く「流れた土を原形に取り繕う」
 「畑に堆肥を入れる」という名目で土盛をして畑を繋ぐ畑繋堤を造りました。

4.無許可の畑繋堤は洪水で流れたり、上流村の訴えで取り払ったりせねば
 ならず、天明2年(1782)には大きな被害が出ました。

5.天明4年(1784)には村代表4名が北方代官所に強訴して投獄、獄死します。
 (北方代官所=愛知県一宮市北方字西本郷に嘗て存在。石碑アリ)

6.1805年、北方奉行に着任した酒井七右衛門は畑繋堤の築造を黙認。これに
 対して上流部の住民が江戸へ提訴。1813年、酒井は江戸で尋問を受けるも、
 彼の主張により納得した幕府から正式堤防築造が許可されます。

7.1819年、工事が竣工したこの年に酒井は病死。酒井奉行と獄死の4名を祀った
 畑繋大神宮が建立されました。


・・・史跡掲示板で1807年完成とある堤は酒井が黙認した堤防の事と思われます。
 後に1819年から始まった正式堤防工事の結果が1650mなのか、黙認時点でなのか
 今のところ不明です。

  この神社に残る堤跡は、言われてその目で視なければ何か判らない程。
 地域の英雄を神として祀るのは現代人としては疑問なれど、過去の偉業を忘れず
 後世に残す手法としては古来より行われてきた事なのでしょう。ここの場合は
 鎮魂・顕彰の双方が込められているのでしょうが。

  それよりもココに限らず、史跡碑の文字を大臣に頼み、わざわざ目立つ様に
 表へ記す方がどうかと。後ろへひっそり記してあるなら寧ろ好印象でしたが
 何だかこうでもしないと予算が・・・と聞こえてきそうな感がして良い感じは
 受けないモノです。主役(堤跡)と大きさのバランスも考えて欲しかったところ
 ですが、これについては個々人で感じ方も違うでしょう。私的には主役が喰わ
 れている思いを受けました。
 
  現在の史跡に対してはその位にして……。


  当時を思うと、下流域の工事をした事で上流で洪水被害。その地域で堤防を
 作れば近隣や更に上流で被害という連鎖。故に被害地域での堤防作りを近隣や
 上流域から反対が出る、という輪中地帯の争乱が実に想像し易い優れた史跡と
 考えます。
 
  地域の苦悩・近隣や上流の懸念も踏まえた上で築造を黙認し、後に幕府に
 対して「片方が堤防を作って守っているのに、もう片方に堤防作りを許可せず
 洪水被害を黙認して良いのか」と端から見れば至極当然な正論を堂々と主張し
 正式な堤防築造を許可させた代官:酒井七右衛門は地元にとって英雄で顕彰に
 値するのも納得行くところ。神に、は2度書きになるのでやめておきます。
 
  正論だけで国は運営出来ないだろうけど、だからといって役人が端から
 正論を放棄では困ります。実現困難な正論を掲げながら、現実を少しでも
 それに近づける努力をしてくれてこそ役人・政治家は意味を為し尊敬にも
 値すると思うので。

                                                                    2012-12-15