『木曽三川下流域における渡船と物流』 KISSO 41号
江戸期は幕府政策(軍事上)により、川に橋を基本的に架けず結果として
渡船による河川交通が発達した。 架橋技術が未熟であった事も一因。
木曽三川における渡船場は明治初期で166箇所!
・・・架けなければ更に技術発達が遅れる。とはいえ江戸・大阪の町中は
結構な長さの橋も架けられており(江戸は公的に、大阪の多くは民間で)
そうした大都市での架橋技術は進んでいたと見る事も出来るかも。
<七里の渡>
p8に桑名~熱田へのルートが描かれる。海路:七里=27.5km。
・熱田湊(一般的には宮宿、公的には熱田宿)
東海道随一の宿場。元和2年(1616)から渡船開始。
熱田奉行が船奉行を兼ねて管理。
船奉行→(配下)→船会所:旅人荷物の取扱い。宿場の問屋場的。
基本的に夜間の出港禁止。
・桑名湊(桑名宿)
船着場の石垣は長さ70間(約127m)、高さ3間(5.45m)渡船75艘!
湊が遠浅の為、干潮時用に小渡船42艘も用意。
渡船従事の船頭・水主(かこ)の総数360人。
彼らの生活維持用に無年貢・無役の新田10町歩(=10万㎡)。
南に位置する四日市宿での途中乗船・下船につき論争に。
・・・桑名と四日市で争っていたというのは興味深い。地図で見ても
四日市で乗り降りする方が時間短縮に繋がる。となると疑問点は2個。
1.何故わざわざ桑名に各種施設を作って整備したのか?という視点。
2.桑名へ施設を集中したなら、渡を四日市へ寄らないルートにすれば
良かったのに、寄るから妙な争いを引き起こすのでは?という視点。
宿場の順も熱田・桑名・四日市の順で、それをショートカットなんて
するから諍いが起きたのでは。
この解答を得るには、両者の関係についてもっと多くの情報が必要。
2012-12-03
<三里の渡>
桑名~佐屋へのルート。佐屋~熱田は陸路で六里。
七里の渡に比べて安全な航路。
この陸路ルートは参勤交代の武士・一般の旅人から望まれていた。
・・・船旅の危険+渡船にトイレが無かった故というのが、意外でもあり
納得出来る点でもあり。参勤交代の様に多人数での渡航となれば、
これは無視できない大問題だろう。
・佐屋湊
役船17艘。船役41人。基本的に夜間の出港禁止。
江戸後期には佐屋川の河床上昇で衰退。明治5年(1872)佐屋路廃止。
・・・折角の佐屋ルートが土砂堆積で機能自体が失われるとは。
別号では土砂を取り除く工事が行われた事も記載アリ。
自然のままであれば早期に機能停止していた佐屋ルートを江戸時代の
人々が必死に維持してきたと思うと感慨深いモノが。
湊・宿の各施設、それらに携わる人達は廃止された瞬間から職を
失う事になる。明治5年、現実になった訳で佐屋の人達はその後どう
立て直し生きていったのか?佐屋町(現:愛西市)の町史を見る事が
出来れば何かしら書いてあるかもしれない。
愛西市佐屋郷土資料室(旧:佐屋町中央公民館歴史民俗資料室)という
ところには佐屋宿と佐屋川に関する展示がある模様。ネット検索では
知る人ぞ知る資料室の様で、木曽川文庫に続いて訪れてみたい場所が
増えた。
海津市の歴史民俗資料館・明治村なども含め、勉強してから行けば
感じるところが大いにある施設はまだまだありそう。
2012-12-05
<前ヶ須渡船>
・佐屋街道廃止に伴い設置。
・前ヶ須~桑名は一里。
・当初の交通量は1日平均40名ほど。大正末期には100名越。
・昭和8年尾張大橋の開通まで重要な役割を担う。
明治になっても陸上交通用の架橋が十分に為されかった事から、三川の
分流工事に際して閘門の築造を願う請願書が地元流域民から提出される。
それを受けて、現在も残る船頭平閘門(愛西市立田町福原)が築かれる。
・・・閘門は水位を調節して船を通す施設。大規模なものとして
パナマ運河を思い浮かべれば、どんな感じかの想像がし易いと思う。
木曽川下流河川事務所のwebサイトにも説明図アリ。
ここ(船頭平閘門)に木曽三川関連の資料が保存・展示されており、
一度訪れてみたい施設。但し赴くには車が無いと少々困難。
・・・昭和8年迄架橋されてないとなると、人・物の動きに相当制約が
掛かった筈。愛知・岐阜・三重を結ぶ木曽三川に架かる橋達の出来た
年月を追うのも面白いかもしれない。
2012-12-07
『横道渡し』 岐阜県揖斐川町歴史民俗資料館
揖斐川町の歴史民俗資料館にて撮影の写真から。
資料館の西へ1km程のところが説明板に書かれた姥坂。更に西に嘗て街道があり、
「横道渡し」が有ったと書かれています。 そこに有ったのが写真の大石との事。
・・・かなりデカイ石です。目印なのか、舟の乗り降りで利用したのか不明ですが。
石はともかく、説明板に書かれた川筋を現在の桂川・揖斐川の流れと比較して
消えた川筋を想像すると随分変化した事が判ります。
説明板の地図を見る為、解像度は大きいまま+シャープネスだけ掛けて
フォトギャラリーへ載せています。
2012-12-11
『段木流し』~揖斐川、参考:KISSO 68号
用語集タ行『段木(だんぼく)』を書き込んだので、参照用に。
電力開発によるダム建設が進む前は揖斐川でも木材流送が行われていた。
雑木からの『段木(だんぼく・つだ)』と呼ばれる薪材が主要林業生産品。
語源は年貢米の代わりに納めていた「殿木」が変じたと言われる。
明治時代以降、揖斐川段木会社が伐子(きりこ)と呼ばれる
専業or兼業(農業と)者と契約して運搬。
旧徳山村などの農民は、雪解け前に山へ入って適した木に印を付け、
土用の丑までに切り倒していた。
集められた段木は12月~正月に、揖斐川を流して運搬(=川下げ作業)。
出発地:徳山~到着点:森前まで、15~20日かけて運ばれ(流され)た。
各谷から落とされた段木が揖斐川一杯に広がり流れる風景には多くの
見物人も訪れたという。
道路整備や発電所建設により、昭和7年頃に段木流しは姿を消す。
・・・殿木(でんぼく?)→だんぼく、に変じたと言うのは面白く納得も
しやすい。
非常に気になったのは、農民達が山へ入って適した木をそれぞれで
切り倒していた下り。この契約・所有関係は一体どんなだったのか。
山自体は共有林と言う事で村所有になっていたのかもしれない。
山に附随するとして木も共有であったのかも。
会社は受け渡し後に段木の所有権を取得する。村の共有林(と想像)は
村全体の財産だから、それを個々人の金銭に換えるからには、村総出で
掛からねば不公平感が生ずるだろう。
税金視点でも良く判らないところが。
明治になって個人の土地所有権が出来、地租改正により現在でいう
固定資産税が出来たが、雑木の山であればそう高い税金は掛けられ
なかったと思われる。
土地から地租がさして取れないのであれば、個人or村が会社から
得る収入に対して所得税を掛ける事が考えられる。
となれば所得税の歴史も調べてみなくては・・・国税庁サイトへ。
所得税は1798年イギリスにて創設。日本では明治20年(1887)導入。
思った以上に時期が早い。但し所得300円以上が対象で、明治31年まで
全体に占める所得税の割合は2%程(殆どは地租・酒税)との事。
その後、明治32年、昭和15年、22年、24年、28年と改正が続く。
昭和15年に法人税が設立、源泉徴収制度もこの時。
今回(段木流しの時期)、所得税が関係するとしたら段木会社の方かも。
・・・個人だけだった、しかも法人税は昭和15年。んん?段木会社からの
税徴収は何だったのだろうか。
2012-12-13
『桑名と四日市の関係』 KISSO及びネット資料
「七里の渡し」で気になっていた両宿について。
桑名藩は徳川四天王と呼ばれた本多忠勝が初代。嫡男の代で播磨姫路藩へ
加増移封。
次の久松松平家を経て奥平松平家時代の1742年、桑名の宿役人が訴えを
起こしている。
1762年「原則として直渡海を禁ず」との達しで紛争解決とアリ。解決まで
20年越しの争いか。
四日市宿は天領として幕府の直轄。
桑名は松平の姓から親藩、対する四日市は直轄地、か。
桑名は当初から船を着ける場としての施設を整えてきただけに、途中で
別地点に寄って人・荷物が自分ところを通過しないのは面白いはずがない。
それが中間点であるならともかく。
となると親藩とは言え、直轄であるという事から幕府は強い態度に出て
四日市への寄港を強行したのだろうか? 勿論、通行する人々らの要求も
有ったとは思うが。
熱田~桑名の航路は土砂堆積により、満潮時に比して干潮時は遠い沖合を
通るルートとなった。
桑名~熱田の海岸線は土砂堆積の影響が無く、船が寄りやすい状況も
有ったかもしれない。
まだまだ情報は足らない感じ。
現時点で考える欲しい情報としては……。
・街道情報
江南市史では「近世の道筋」として街道図が掲載されている。
桑名と四日市、それよりもっと広い地域を含めて当時の街道図が
得られれば、人々の動く陸路・海路から関係が想像出来るかも。
・四日市宿の歴史
ネットに依っても情報が少ない。四日市市立図書館で検索を掛けて
みると「東海道四日市宿本陣の基礎的研究」という本があるらしい。
2001年10月発行、7900円! こういう手の出せない高い本は図書館で
読むに限る。図書館が遠いのが問題だが……。
2012-12-17